織物や染め物の技術者として貢献した漢織・呉織を祭る神社。海を渡ってきた彼らは華やかな絹織物(シルクの織物)を織りだす高度な技術を持った服飾の製作者たちでした。
雄略天皇の時代
漢織・呉織は奈良が都だった5世紀の古墳時代に活躍した織物の技術者(手工業者、織工)たちで、秦氏の酒公(5世紀)は漢織・呉織たちが織りだした絹やその他の織物を献上し、宮殿に積み上げて第21代雄略天皇を喜ばせました。彼らは雄略天皇が呉国(宋)に派遣した使者(身狭村主青、檜隈民使博徳)が連れてきた織物の人材。現在の大阪の住吉に船で到着し、陸路で奈良に向かい落ち着いたと日本書紀に記されています。
応神天皇の時代
第15代応神天皇の時代に渡来した「呉織・漢織(クレハトリ・アヤハトリ)」の伝承も残っています。大阪府池田市の観光協会サイトによると
”応神天皇37年(306)に、中国の呉(ご)の国へ遣わされた阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)という父子が、日本へ連れ帰った4人の縫工女(きぬぬいめ)の中に、呉織(クレハトリ)・漢織(アヤハトリ)がおりました。”
”池田の地で亡くなったふたりは、それぞれ呉織が「呉服神社」に、漢織は「伊居太神社」に祀られています。”
ということで、実際に祀られている神社が存在します。大陸から最初に到着した福岡県福津市の縫殿神社、九州から瀬戸内を渡航してたどり着いた摂津国武庫浦の近辺とされ呉織・漢織が立ち寄った伝説が残る兵庫県西宮市の喜多向稲荷社(松原神社(松原天神)の真向かい)と津門神社。異なる地域に同じ伝承が伝わっています。
大酒神社(創建年代は不明)
所在地:京都市太秦
秦氏の秦河勝(はたのかわかつ、6世紀後半)が聖徳太子より仏像を賜わり、その仏像をご本尊として、広隆寺を建立(7世紀前半の創建)。その境内で秦氏が祖とする始皇帝の祖霊や秦氏の先祖を祀っていた社が大酒神社(元の名は大避神社)の始まりで、寺より先に存在していたという説も。数多くの絹綾を織出して貢献した呉服と漢織を神霊として祀った社が大酒神社の隣にありましたが、明歴年中(1655年から1658年、江戸時代)に破壊されたので大酒神社で合祭されたということです。漢織・呉織は相殿神として主祭神と一緒に祀られています。
*漢織・呉織は広隆寺の太秦殿(河勝殿)でも祀られています。
最寄り駅:太秦広隆寺駅(京福嵐山線)

木嶋坐天照御魂神社
通称:木嶋神社
本殿は主祭神として天之御中主神、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命、瓊々杵尊の五神を祀る。
蚕養神社
通称:蚕の社
所在地:木嶋神社本殿右側の社殿
雄略天皇の時代、呉の国から呼び寄せた漢織、呉織と養蚕の技術を持った秦氏諸族が絹綾(綾織りの絹織物)を織り出し「禹豆麻佐」の姓を賜った。*1
推古天皇の時代になって報恩と繁栄を祈るため、養蚕・機織・染色の祖神を勧請して守護神として祀ったのがこの蚕養神社。
三柱鳥居があることで知られる。
*1. 秦造酒が庸、調の絹や縑(かとり)を献上し、その絹・縑が朝廷にうず高く積まれたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜ったという話が日本書紀にある。
最寄り駅:蚕の社駅(京福電鉄嵐山線)
大阪 奈良 兵庫 九州(福岡)の漢織・呉織
田坐神社 大阪府松原市田井城
主祭神は八幡大神(応神天皇)と依網宿禰(よさみのすくね)
穴織(あなはとり)・呉織(くれはとり)を祀る
(穴織=漢織)
最寄り駅:高見ノ里駅(近畿日本鉄道)
糸井神社 奈良県磯城郡川西町
主祭神は豊鋤入姫命
綾羽明神・呉羽明神を祀る
(綾羽=漢織=穴織、呉羽=呉織)
神社の名前に「糸」が入り、この地域と機織りや養蚕の関係の深さを表している?
最寄り駅:結崎駅(近畿日本鉄道)
兵庫県
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